哲学
令和初の企業内診断士研究会が開催された。県内の企業内診断士や診断士を目指す方が集まる研究会だが立ち上げ当初は5人だったと思うが14人も集まりなかなかの盛り上がりようだった。第2回目となる独立診断士の講話・座談会は前回同様すごいものだった。女性…
量より質だという言葉より量こそ質だという言葉の方がグッとくる。寡作より多作の人が気になる。少ないアウトプットでものすごいモノを世に出してくるケースもある。ピンと浮かぶのは"There She Goes"という珠玉の名曲を書いたリー・メイヴァースだ。とんで…
「パパはいつもしごとでなにおしているの」我が子からそんなメモをもらった。答えをその下に書けと。私は一体何をしているのだ?一瞬パニックになってしまった。マーケティング、ブランディングだとしたらどう伝えればいいのか。悩みこう書いた。「しょうひ…
基本的には組織は陳腐化し硬直化し悲鳴をあげる運命にある。大企業や官僚組織は典型的にそれであり、学ぶまでもなく明らかなことではあるがそのことを珍談士は座学としても学ぶ。そのような中で組織に依存することがどれだけ馬鹿馬鹿しいことであるかは火を…
一切手を使わずコーヒーカップを上に向けてアゴでカップを支えてコーヒーを飲んでいたらあることを思った。将来、人工知能が進むと人類は異国語を学ぶ必要がなくなると誰かが言っていた。AIが翻訳してくれると。ほ〜それは便利だなと思いつつもソレは人間の…
作品とは。芸術作品とは。絵画、音楽、彫刻、小説、詩、映画。色々なものがある。それぞれ全く異なる表現である。私は音楽をかじっているが音楽が最も感情に直結しているという自論を持っている。かきむしる音楽に心を揺さぶられたり音を聴き涙したことがあ…
第4の状態と言われるプラズマ。固体、液体、気体とは異なる状態だ。宇宙の99%はプラズマ状態であるらしい。そういう意味でプラズマはありふれている。逆に固体、液体、気体はレアである。我々の人体は固体、液体であり、気体を取り込んだり吐き出したりして…
ぐにゃり。ぐにゃり理論。ソレつまり、ぐにゃ理論。グニャ理論。万物はぐにゃりとなるイメージを脳内で思い描く。ミニマリズムのような硬直化したじわりじわり吐き気を催す主義は不要である。ぐにゃり。いらないものとはなんだろう。なぜ固いものは固いのだ…
デペイズマン。それは端的に言えば表現手法である。シュルレアリスムの一つの技法である。マグリットの「大家族」が有名でわかりやすい例であろうか。ザキヤマ信奉者である私はぺい~すマンとしてこのデペイズマン信奉者に一言、モノ申さなければならない。…
超一流の俗物になりたい。超一流だけど俗物。俗物だけど超一流。超一流の俗物。なんてイイ響きなんだろう。対義語はなんだろう。三流の紳士か?三流の紳士。クソバカにさらている感がすごい。せめて三流の紳士と言われないように生きていきたいものだ。髭を…
何事も「型」は重要である。経営診断にも型というものはある。実務でも型は使えるが使いものにならないことも多いだろう。型など言っている状況でなかったり特殊過ぎて当てはめられなかったりそんな感じが多いはずだ。経理の記帳をアナログでやっていたりフ…
先日診断士の先生方と飲んだ時のこと、私がトーキョーマスターコースの話をしたら尊敬している先生がこうおっしゃった。「私も勉強がしたい。理論を学びたい。実践しかやってないから」と。その先生は診断士なのだから、もちろん理論を知らないわけではない…
「芸術家は科学を知らない、科学者は芸術を知らない。科学は細分化され過ぎて科学者でもその分野しか知らない」とダリは言っている。ダリセンセは芸術家であるが人生の中盤からは科学を追及することでさらに己の芸術を深化させていった。原子核物理学、量子…
肛門哲学と放屁芸術。肛門は哲学的であり、放屁は芸術的である。肛門は存在そのものであり、放屁は存在から切り離される。肛門は視覚で認識され、放屁は聴覚・嗅覚で認識される。聴覚的肛門は人類にとって未開の領域であり視覚的放屁は大事件である。放屁が…
三島由紀夫は自決し介錯された。三島由紀夫の首の写真を見て私の脳内で強烈に出力されるものはその政治的思想ではない。三島由紀夫の母親である。母である平岡倭文重は三島の死を聞いて玄関で座り込んでしまったという。そして仏教哲学に影響を受けた息子の…
YouTube。コイツが現れて十数年が経った。そりゃ驚いたものだ。私はヨシヲ・コジマに釘付けだった。彼は生き残った。ぴ~や~ワールドの国王として王冠をかぶり今後も君臨し続けるだろう。YouTubeの何がすごいか。それは動く偉人が見れることである。シロク…
専門分野。専門分野とは何ぞや。私は理系だったが経済学部を専攻した。理由は工学部に行きたくなかったからだ。工学部へ行くと実験やら何やら忙しいぞとハイスクールテーチャーに言われそれではガレージパンクに支障をきたすではないかと思いイヤだと言った…
人間関係で職場を退職する人は多いらしい。ニンゲンほどメンドクサイものはないしいい加減なものはない。その気持ちはよくわかる。イヤなヤツは地動説がひっくり返ってもイヤなヤツであろう。相手が自分をイヤなヤツと思っていたら逆もまた然りである。組織…
ある重要事項を検討中に「ゑ」という字にぶつかった。この字はなかなか普段お目にかからない。「ゑ」は私の苗字である惠美須の「惠」から来ているらしい。こうしてマジマジと見ていると「るん」である。しかし草体の「ゑ」を見ると「惠」を崩していることが…
あることに気づいた。全ては肛門へ帰結していくと。人間存在は肛門から始まり一旦肛門で終わるのだ。開始点であり終着点である。しかし私は首を守らなければならない。人間の部位で首ほど私を敏感にさせるものはない。首に全存在がかかっていることは言うま…
全ての人間はどんなに頑張ってもこの世の物事の0.1%も知らずしてその生涯を終えるだろう。例えば毎日10時間読書をしたとしても一切読まない人間と比較したらその差はないとはもちろん言えないがもっともっと大きな世界をイメージして2人を比較したとすると…
偏執狂的批判的詫び寂び。パラノイアッククリティックワビサビ。それは日本人しか到達できない領域である。滅びていくものの美しさを妄想的に批判的に。我々の多神教的素地は西洋とは異なる偏執狂性を産み出す。時には批判さえも排除される。排除ではなくそ…
ルーティンがじわりじわり迫ってくる! ではなくてルーチンチンは じわりじわり迫るものでありたい。 “Routine, in an intelligent man, is the sign of ambition”と ウィスタン・ヒュー・オーデンは言っている。 ルーチンは知性ある人にとって 野望のサイン…
相変わらずやりたいことは膨れるばかりである。全てをやる時間などない。まあコレは幸せなことではある。食料余剰の幸運に乗っかって平和を謳歌しのたうちまわっているだけである。一歩引いて考えてみれば自分なりに優先順位をつけている。家族との時間を大…
感性の書。小説、詩、随筆、自伝いろいろあるだろう。感性の書は実務書の対義語である。実務のために存在する書はそれはそれで実務遂行には必要である。感性の書とは己の感性をぶちまけたものである。つまり内容によっては何言っているかわからない場合もあ…
平成で売れた本を紹介するTV番組を観た。全部を観たわけではないがそんな本あったね〜なんて話になった。来たる令和の時代には一体どんな本が流行るのだろうか。売れる本というのはその本のアイデアや内容が面白いのはもちろん時代にマッチしていなくてはヒ…
Yuya, don't rest in peace!涙を誘う素晴らしい謝辞であった。内田裕也の遺影がカール・ラガーフェルドに見えた。つまりファッションはロックンロールである。ロックンロール。それは魔法の言葉である。絶体絶命の窮地に立たされた時発せられるその言葉はロ…
私は作曲を10代の頃からやっている。気付いたら脳内で音を鳴らし音像を構成できるようになっていた。とは言ってもガレージパンクという荒削りなロケンローにどハマりした人間でありそこからが起点であるのでいわゆるクラシック音楽のような高尚なものではな…
日常で緊張することは大なり小なりあると思う。なるべく緊張などしたくはないがある程度人間にとって必要なものでもある。最高の緊張感を味わえるものとしてスポーツ観戦があると思う。結果という唯一のゴールに向かって人と人が競い合う時例えば優勝争いを…
前回は「偏執狂的」を噛み砕いてみたが今回は「批判的」を考えてみる。批判的とは物事を客観的に分析的に論理的に考えていく態度のことを指す。否定的に物事を見ることはイコール批判的ではないのだ。批判的は英語でクリティカルである。そうビジネスマンな…