サルバドール・ヱビ

超現実珍談集

肛門哲学と放屁芸術

肛門哲学と放屁芸術。
肛門は哲学的であり、放屁は芸術的である。
肛門は存在そのものであり、
放屁は存在から切り離される。
肛門は視覚で認識され、
放屁は聴覚・嗅覚で認識される。
聴覚的肛門は人類にとって未開の領域であり
視覚的放屁は大事件である。
放屁が視覚化されると、
それは大問題になる。
これまで黙殺されてきた犯人不明による
無罪放免現象が真っ向から否定される。
放屁と同時に犯人は確定となり、
弁解の余地が一切なくなるということは
まさに人間界のコペルニクス的展開であり
その意味で放屁が哲学的になるということだ。
視覚化された放屁を濁りゆく茶色で
イメージする人も多いだろう。
それは違う。
安易である。
虹色の放屁である。
プリズム現象のような放屁。
北極と南極で観測されるような
オーロラのような放屁。
嗅覚は麻痺しその美しさに見とれてしまうだろう。
そう。
その意味で放屁は芸術なのである。
ある女に一目惚れしてしまった男は
その女の放屁の色により
一目惚れが一瞬で終わる場合と
確信に変わる2パターンが存在するということだ。
虹色のオーロラの放屁を放出する肛門は
まさに思考する肛門でありその人そのものである。
放屁が犯罪であることが遠い過去になり
我々は昔話で涙するのだ。