サルバドール・エビ

中小企業診断士の超現実診断士への挑戦

偏執狂的たれっ!

偏執狂(へんしゅうきょう)とは
パラノイア、妄想症とも言われる。
一つの事に異常に執着し、
病的な態度を示す人をそう呼ぶ。
モノマニア(monomania)であり
単一の思考に没頭している人である。
一方で偏執病(症)というのは
「私は次期天皇である!」とか
「誰かが私を殺そうとしている」とか
そういった妄想を持ち続けている状態に
なってしまっている人が陥っている
一種の精神病のことである。
偏執病になってしまった場合は
精神科医に診てもらった方が良いが
ダリセンセは偏執狂「的」と言っているので
偏執病になるべきと言っているのではない。
「的」なのでそれに近いアプローチを
取るということである。
一つの事に異常に執着するとは
どういうことだろうか。
通常、人は全体を見て物事を
判断するようになっている。
それとは逆ということである。
例えばハズキルーペのCMを観て
ふざけたCMだなとか面白いCMだなと
そういう感想で終わらせるのではなく
小泉孝太郎氏が後ろに
投げるおしぼりに注目するのである。
私はあのおしぼりに関して
ひたすら考えを巡らしたのだった。
私はおしぼりのキモティを考えると
切なくなってきたわけだが、
そこにはおしぼりから展開されるイメージ、
ストーリーがあるわけである。
つまり自分が感じたあることに関して
それがどうでもいいことか重要なことかに
関わらずひたすらそれについて考えることが
偏執狂的なアプローチになると言えよう。
「全体」ではなく「部分」
それもキーワードである。

偏執狂的批判的方法をわかりやすく

ダリセンセは自分の創作活動の方法を
「偏執狂的批判的方法」と呼んでいた。
センセの定義によれば
「精神錯乱的な連想と解釈の批判的かつ
体系的な客観化に基づく非合理な
認識の自然発生的方法」とのことらしい。
これを読むだけではん??となる人が
多いだろうと思われる。
「偏執狂的」というのは
妄想的で、あることに異常に執着し
精神が正常でない状態である。
「批判的」というのは何かを否定的に
考えることとイコールではない。
「批判的」というのは自分の頭を使って
思考することでそのものを評価、
判断している状態であることを意味する。
具体的な例を挙げてみると
フランスの画家ミレーの「晩鐘」という
作品は農作業をする夫婦が夕方
教会から鐘が聞こえてきたので
下を向き祈りを捧げている絵画である。
https://www.musey.net/12337
しかしダリはこの画を見て
夫婦の死んだ子供が下に埋まっており
その死を悼んでいる画だと解釈した。
そう言われればそう見えなくもない。
これが「偏執狂的」ということである。
そして構図をそのままにしてその夫婦を
骸骨として書いた作品を描いている。
死のイメージを強烈に感じさせる作品で
自分の妄想的な解釈を客観的に評価し
事実化し他者に伝達することが
「偏執狂的批判的方法」ということである。
つまりこの方法を利用したいのであれば
まず妄想的でなければならない。
妄想的になるとはどういうことなのか。
さらに考えてみよう。

セーセーした精神からブッツブツの物理へ

ダリセンセはフロイトセンセの精神分析学に
影響を受け、それが作品に反映されている。
そして時代が進むにつれ数学、物理学にも
関心を持ち宗教と科学と芸術の融合を
目指しているかのような作品をつくっていった。
なるほど~ちゅうことでフロイトの著作と
物理学の書籍を読み始めている。
元々理系であった私は物理学が
得意でもなかったが嫌いでもなかったので
ヒッサビサのブッツブツのブツリを
ザックザクすることにワックワクしている。
文系理系というつまらぬ概念はぶち壊すべきだ。
昨今人生100年時代とも言われており
あらゆるものを学ぶこと、学び直すことが
世間では叫ばれている。
いつ死ぬかは知る由もないが
せっかくなのでしょーもないこの脳ミソを
ムチャクチャにこねくり回してやろう。
中小企業診断士試験では
特に科学技術に関することは深く問われない。
だが科学や技術に対しても
知見を広げることは必須であろう。
そして科学や技術は「アイデア」「創造性」と
密接に結びついている。
そこに「経営」という視点が加わる時
「知的財産」という領域も大変重要である。
知的財産は流石に診断士でも学んだが
こちらもさらなる深堀をしていきたい。
なんてことだ!!
学ぶことが無限にあるゾ!!
タッヤー!
ボラブー!!
イザンバ!!!

俯瞰的直感

「直感」ちゅうもんがある。
直感はまだ科学的に解明されていないと思う。
「科学的に解明」されたから
どうだということもない。
科学への妄信も危険である。
ともかく直感ちゅうもんは存在する。
歳を取ると直感が冴えてくる気もしている。
それは「経験」に拠るところも
大きいのかもしれない。
経験によりさらに直感が冴えているとも
言えるかもしれない。
感覚と論理と経験を織り交ぜて結論を下す。
言わば「俯瞰的直感」である。
直感でだせえなとかカッコわるいなと
思ったものは5年、10年それ以上経っても
その感覚が変わることはほぼないし
見るも無残に対象が没落していることもある。
もちろん全てが当たるわけではない。
特にメディアなどに調理されているものは
感覚を誘導されている危険もある。
本質を見抜くことが重要だ。
裏を返せば歳を取ると頑固になるということだ。
俯瞰的直感は時にぶち壊さなければならない。
しかし俯瞰的直感は絶対なものでもある。
この矛盾したところ、その狭間に新たな領域も
存在しているのであろう。
ボラブー!!!
イザンバ!!!
ビバフカンテキチョッカン!!!

ファッッショョン・イズ・ノッット・アートッ

どうでもいい話と言えばどうでもいい話。
個人的な直感というか感覚として
ファッションというものは芸術でないと
ずっと思っていた。
ファッションはアートでないと。
音楽や絵画はアートだと思う。
その理由ははっきりしない。
感覚的なものだ。
ファッションに無頓着な私だから
そんなことを思うのだろうとも思ってた。
先日、モード界の帝王と呼ばれる
カール・ラガーフェルドが他界した。
こんな私でも名前を知っていて
人に薦められてDVDを観たこともあった。
DVDを観ても正直何も感じなかった。
ザ・クラッシュのライブ映像の方が
私の心を揺さぶる。
ロンドン・コーリングのプロデューサーの
ガイ・スティーブンスは狂っていた。
「イスは喋らないからこうだ!」と言って
イスを床に叩きつけていた。
それには魂を揺さぶられた。
世界で語り継がれるとんでもない名盤が
出来た理由が少しわかった気がした。
さてここで面白い事実を知った。
カール・ラガーフェルド自身が
「ファッションは商いである、
ファッションは芸術ではない」と
言っていたそうだ。
本人がどういう意図で言ったのかは
知らないがアートではないと
本人も思っていたということだ。
ファッションというものを
再考してみるべきもしれないと思った。

お隣の診断士協会の皆様と交流

他県の診断士協会の方と交流をしよう!
ちゅうことで
お隣の企業内診断士会の定例会と懇親会に
企業内診断士研究会の一員として参加してみた。
その県の診断士会は規模としては
比較的大きい規模の診断士協会であるが
驚いたことにここ2、3年で
会員が倍増したそうである。
私の所属する診断士会の5倍の規模を誇る。
すさまじい成長ぶりだ。
やはり人口に比例するのも一因だと思うが
電車社会なので比較的集まりやすく
かつ飲みやすく交流が盛んなのだろう。
私は車社会の県に住んでいるので
毎月飲み会だとかそういうものはない。
それはそれで健康にも経済的にもいいのだが
色々な人に会うということは刺激になるので
こういった活動は研究会で定期的に行っても
いいのではと思った。
と同時に診断士以外の人間にも
もっともっと会わなければならないとも思う。
人を動かすものはやはり人である。
それ以上のものはない。
ニンゲンバンザイ!!!

創作作家のジレンマ

世の中には創作作家と呼ばれる方がいる。
創作作家さんにはあるジレンマが存在する。
「同じものはなるべくつくりたくない」
というジレンマである。
創作作家さんは新しいものを創ることに
喜びを感じているのでなるべく
自分の頭の中にあり着手できていないものを
つくりたいという欲求がある。
特に実用品をつくる創作作家さんは
同じものをつくって欲しいと
言われることが多々ある。
食べていくためには同じものをつくらないと
いけない状況が発生するということである。
その方でしかそのものをつくれないので
誰かに代わりにつくってもらうということも
なかなか困難であることが多い。
同じような事例として頭に浮かんだのだが
ローリング・ストーンズが50年以上も
サティスファクションを演奏するのも
それと同じ気分なのではないか。
ん~違うかッ!