サルバドール・ヱビ

超現実珍談集

レタスを噛み砕く

レタスを噛み砕く多幸感に
ヤられそうになりながら
ドレッシングと絡み合う
レタスを歯でジャキジャキと
切断し粉砕し飲み込む。
キャベツには再現できない
レタスの多幸感を思いながら
その差異の分析を放棄して
シャキシャキと音を立てるレタスに
何度も絶頂しながら
涎にこねくり回されるレタスは
最後に強い酸が待ち受ける
ホールに最終的に放り込まれることを
考えてまたもう一度絶頂する。
お前は主役だよ。
脇役のように扱わないで。
肉に喰らいつき飲み込む時の
体の痙攣を思い出すと
私には官能性が強すぎて
目眩がしてしまうから
レタスの絶頂性をイメージしながら
アカペラでテイクオンミーを歌うよ。
遥か彼方に存在するであろう
マリの音楽でも聴きながら
その低音を脳内で10倍にして
下半身に地響きを与える。
下半身と上半身のどちらでもない
体の部位にレタスが流れ込んでいく。
骨を粉々にして溢れてきた髄液を
顔にかけながら飲み込んでいくのは
私には官能性が強すぎるから
まさに中国と呼ばれそうなその
弦楽器の音色に100倍のリバーブ
かけて目を閉じて
霞かかった美しい川を思い浮かべて
その匂いで一旦澄んだ心を取り戻すんだ。

組織の中と外

組織の中と外の問題。
腐敗し緩やかに崩壊していく
組織体があったとして
中の人と外の人はどちらが先に
その崩壊を察知することができるのだろう。
諸事情を第一に知ることが
できる中の人だろうか。
客観的にその組織体を見ることが
できる外の人(支援者)だろうか。
中の人と外の人はどちらが真剣に
その崩壊を食い止めるために
何とかしようと躍起になるのであろうか。
組織が完全に腐敗し士気も低下してしまった
状況だとしたらたとえ外の人が
いくら頑張ったとしてもその努力は
水の泡になってしまう可能性が高そうだ。
冷静に考えて見ると組織体に属していて
この組織を何とかせねば!と
意気込んでいる人は少数派ではないだろうか。
毎月入ってくるサラリーのために
何となくやり過ごしている人間が
多数派と言うかデフォルトである気もする。
組織論と結局は人に行き着く問題だが
ほとんどの変革者と支援者は
まずそこにぶつかるはずである。
崩壊するものは崩壊するのだと言う
割り切りも一つの考え方である。
新陳代謝の一環であると。
人に何かを伝えること、話を聞くこと、
組織や人そのものについて考えることなどが
気になる今日この頃である。

ノンクリとクリクリの使い分け

SHIGOTOっちゅうもんは何かしら
クリエイティブな部分があるとは思うが
クリエイティブな仕事と
ノンクリエイティブな仕事に
無理矢理わけることも一応可能である。
コレはSHIGOTOではなく
JIGYOもそう言える。
クリエイティブな事業と
ノンクリエイティブな事業があるだろう。
クリエイティブな事業はある意味
挑戦的な事業であるので
クリエイティブな事業で大きく収益を
獲得できていれば理想的だが
そうでないケースも多いと思う。
挑戦的な事業であるがゆえに
まだ市場で受け入れられていない
という状況は幾らでも存在する。
その時はノンクリエイティブの事業で
収益を獲得していくことに
注力するのも手である。
ノンクリで資金を獲得し
クリクリに投下して
自社の事業の変革を狙っていくのだ。
経営理論として有名なPPM
プロダクト・ポートフォリオ・マネジメントに
似ているような印象も受けるが
クリエイティブとノンクリエイティブで
分ける考え方は別のアプローチである。
クリクリ分析、クリクリマネージメントとでも
名付けてみよう。
よしこのクリクリ分析をもっとクリクリして
クリをもっともっとクリクリしたいと
高らかに宣言しようではないか!
例外なくクリもおぱぱされる運命なのだ!!!

スカンクと放屁芸術

放屁芸術論者として大事なことを忘れていた。
スカンクという存在をどう扱うかである。
スカンクは敵を撃退するために放屁をするが
正確には肛門腺から噴出される分泌液が
とてもデンジャラスなものらしい。
放屁芸術の領域かと思いきや
肛門哲学の領域に該当するのかもしれないが
今回はまあどちらでもいいだろう。
スカンクにとっては放屁は芸術でなく
身を守る武器でありスカンク以外にとっては
凶器であるという事実をどう考えるべきか。
自衛のための放屁、それは国防について
非常に考えさせられる事例でもある。
まさに憲法改正が議論されている中
憲法のない国の軍の扱い、国防を担当する
組織すらないコスタリカのような国、
放屁芸術と肛門哲学と国防に問題提起をする
スカンクのことも含めた深い議論が
必要であることは言うまでもない。
対外的に表明していることと事実が
全く異なると言う矛盾をよしとするのか。
我々は軍を保持すると言い切るのを
よしとするのか。
どんな危険な人間がいるかわからない道を
ふんどし一丁で堂々と歩くのか。
厳重に武装して歩くのか。
我が国を守るために一生懸命汗を
かいてくれている自衛隊の皆様を
放屁扱いしていいのか。
それともそれは芸術だと言い切るのか。
この堂々巡りに一旦決着をつける時が
もうすぐ来るだろう。
スカンクは言語機能を持たないが
言語の扱いで多大な犠牲者も出てしまう
人の世はやはり恐ろしく底が見えない。
分泌液が体内で醸成されるその瞬間と
我々が恐怖を感じる瞬間はきっと
同じようなもののはずである。
恐怖を分析せよ。
人間を分析せよ。
狂気に満ちた世界よ。
世界に平和な放屁を!!!

サイがサウルスになりブタになる

先日のニュッビジネス協議会のフェスでは
外国人の方も多く来ていたので
言葉を使わないでも楽しめるゲームをした。
よくあるゲームなのかもしれないが
個人的にその結果に衝撃を受けたのだった。
どういうゲームかというと
伝言ゲームのようなもので
1チーム4人で2チームを作り、
最初の人がある動物の写真を
5秒間だけ進行役の人から見せられる。
記憶を頼りに白い紙に30秒で絵を描く。
次の人は描かれた絵を見てそれが何かを
判断し同じように絵を描いて次の人に回す。
それを4人目の人までやるというゲームである。
2チームは同じサイの写真を見て
ゲームを開始したのだが最終的にサイは
私のチームは可愛い子豚ちゃんになり
相手チームはゴジラのような恐竜になっていた。
サイがサウルスになりブタになったのである。
つまりこれは何を意味するかと言うと
ニンゲンのエビスタケシが
ゴリラのカニスタケオになったと言うことだ。
世界はそのように出来ているのだ。
存在は存在しているとしても
真実は存在していないことを意味する。
アンコントローラボーなのである。
超現実珍談士だと思っていたら
思ってもいない認識をされている可能性が
大いにあると言うことである。
いやむしろ真実は捻じ曲げられ
好き勝手に解釈されすでに私は
カニスタケオゴリラなのだ。
私はサイになりたい。
私はサイだ。
私はサイダー。
思い出した。
私は泡だった。
シュワシュワシュワシュワ。
シュワシュワシュワシュワ。
シュッシュッポッポ。
シュッシュッポッポ。
スタッキンニーガラージ!!!!!
ザッツオパチュニ!!!!!!!!

ニュッヒシネスキョーキカイッ

ニュービジネス協議会という会合に
お誘いしていただき参加してみた。
基本的には経営者の集まりで
ニュービジネスなので新規事業を
どんどん立ち上げていこうという
集まりのようである。
今回は外国人を招いて
国際交流もしようということで
色々な国の方が来ていた。
カナダ人の方が隣に座ったので
エビングリッシュを撒き散らし
会話を楽しんだのだった。
ただのサラリーマンが参加したら
違和感があるかもしれないが
一応珍談士の理事なので
ヒョロっと参加できたのは良かった。
珍談士を取って良かった点かもしれない。
新規事業開発は非常に興味ある分野であり
珍談士として強みに出来れば
これ程面白いことはない。
業界のことを知らないのに
何ができるの?という意見が
たまにあるようだが、
逆に業界を知らないからこそ
斬新なアイデアが出せるはずである。
異業種を横断的に見ることができるのは
珍談士の強みであろう。
新規事業はほとんどポシャることが
多いが成功させるには当然のごとく
どんどん撒き散らすしかないのである。
東京珍談士会のマスターコスーでは
新規事業開発の講師担当になったし
とあるプロッジェクトも構想中なので
新規事業開発狂人になるしかねえと
思う今日この頃であった。
やはり率先して会うべきは
経営者と芸術家だと感じる。
アウトアウトアウトして
アウアウアウアウアウアウ
やるからにはクレイジースト!!!と
声高らかに宣言したいものだ。

ナンシーのアニマルアイズ

ふと、昔「シド&ナンシー」という映画を
観たことを思い出した。
シドとはセックス・ピストルズ
二代目ベーシスト、シド・ヴィシャスのことで
ナンシーは薬物中毒者でその恋人だ。
2人の破滅的人生を描いた映画である。
薬物中毒で異常な状態となったシドに
ナンシーは殺害され、
最終的にシドもオーバードーズ
若くして死ぬという事実は悲惨である。
ナンシーはシドに殺害されていないという
説もあるらしいが真相は謎だ。
パンクのアイコンとしても語られる
シド・ヴィシャスだが私は全く彼に
興味もないし影響も受けなかった。
なら何故映画を観たのだろう笑?
ピストルズのボーカルである
ジョニー・ロットンジョン・ライドン)が
「あの時は誰も奴を救えなかった」と
涙したということを聞いて
気になったからだろうか。
非情なのかもしれないが
私には薬物中毒者が無茶苦茶やって
死んだ気の毒な話にしか聞こえないのだ。
パンクであれなんであれ
真面目にやれよと思ってしまうのである。
「薬物。ダメ。ゼッタイ」映画としては
観る価値があるのかもしれない。
それ以上このことに対する意見はない。
そう言えば薬物に対する名言も
ダリセンセは残している。
ダリセンセは人をドキっとさせる
凄まじい創造性や数々の奇行で度々
アイツはヤクやってんじゃないのか?
と言われていたそうだ。
そんなダリセンセはこう言っている。
「私はドラッグをやらない。なぜなら
私自身がドラッグだからだ!」
"I don't do drugs. I am drugs"である。
ダリセンセにとってはその辺にいる
パンクスなどひとひねりであるようだ。
彼は努力家でストイックな人であった。
一に努力、二に努力、三四も努力で
五に超現実!!!。
ダメ。ゼッタイ。
薬物をおぱぱせよ!!!