サルバドール・ヱビ

超現実珍談集

壮大な音楽

壮大な音楽が好きだ。
オーケストラのような大人数で
奏でる音楽が壮大だと言いたいのではない。
難解=壮大でもない。
バンドが鳴らす音楽でも
壮大であることはいくらでもある。
Brian EnoのBy This Riverのように
最小限の音でも壮大さを感じることがある。
音像が壮大であったり
旋律が壮大であったり
歌詞の世界観が壮大であったり
壮大にもいろいろな在り方がある。
好物であるガレージパンクは
壮大というよりかは衝動的で
2週間前に楽器買いまして
爆音鳴らして情熱一発でやってみました的な
音楽なので壮大であることは
意外と少ないかもしれない。
ガレージパンクに壮大さは求めないが
壮大な音楽というものは繰り返し
聴きたくなるものだ。
そしてあることに気づいた。
壮大な音楽を創るミュージシャンは
息が長いケースが多いということだ。
壮大さは作曲者のスケールのデカさを
そのまま表しているのかもしれない。
当然と言えば当然か。
そしてその音楽が壮大か否かは
自己の価値判断の世界である。
つまり私は何も言っていないことになるのだ。
これがアートの不思議なところである。
ギュイーン。