サルバドール・ヱビ

超現実珍談集

数々のハードルを越えてきた大企業

大企業。
そう聞くと色々なイメージを
思い浮かべると思う。
良いイメージも悪いイメージもあると思う。
上場している企業もあれば
巨大企業なのに上場していない場合もある。
経営資源の質が高く量が豊富にある。
この国のほとんどの企業は中小企業であり
日本の経済産業を支えているが
中小企業と言えばその逆だ。
経営資源が不十分である。
大企業に振り回されたりする。
しかし良い面もある。
中小企業は意思決定をスムーズに行える。
組織のコミュニケーションも緊密だ。
そういうわけで大企業と中小企業は
性質が全く異なる。
多種多様な中小企業を支援するために
存在する中小企業診断士になりたいと思い
なったわけだが
診断士は中小企業の実情やそれに対する
政策等に詳しくなければならないが
大企業との対比を意識せねばと思う。
大企業は数々のハードルを越えて
大企業になったのであり
その戦略、戦術等は学ぶべきであり
それが中小企業とどう違うのかを
意識しないといけない。
大企業を志向する中小企業と
規模を維持していく中小企業では
取る戦略、戦術も全く異なるだろうから
支援する側もそれに対応する必要がある。
大企業はどうやっているかということを
常々インプットしていきたい。

肛門と首の形而上学的意味

あることに気づいた。
全ては肛門へ帰結していくと。
人間存在は肛門から始まり
一旦肛門で終わるのだ。
開始点であり終着点である。
しかし私は首を守らなければならない。
人間の部位で首ほど私を敏感にさせるものはない。
首に全存在がかかっていることは
言うまでもないだろう。
首が細い理由はそういうことだ。
首は守るべきもの。
肛門は人生を語るもの。
各部位はおのおの形而上学的意味を
帯びているのだ。
その意味を拡大していくと
全生命体の各部位に辿り着く。
全生命体の各部位はそれぞれ
形而上学的意味を帯びているのである。
そしてそれは比較文化論を想起させる。
比較生命体部位論が議論されることが
今後予想される。
そこではもちろん犀の角が論じられる。
キリンの首、象の鼻。
まずは初級編として
そこらから始まるのだろう。
そしてかの有名な格言である
「最期に見た夢は二人の子供に囲まれた自分」
が実現されることを願いながら
己の各部位について思索する。
私は白湯を飲み身体に日々語りかける。

存在と変容

全ての人間はどんなに頑張っても
この世の物事の0.1%も知らずして
その生涯を終えるだろう。
例えば毎日10時間読書をしたとしても
一切読まない人間と比較したら
その差はないとはもちろん言えないが
もっともっと大きな世界をイメージして
2人を比較したとすると大差はないのである。
ニンゲンとはそういうものである。
つまりどれだけインプットに躍起になって
命を削ってもそのような結論に
帰結される運命にある。
しかしニンゲンとして産まれたからには
それだけで終わってしまうのは
何とも虚しい気分である。
ニンゲンとして存在するなら
ニンゲンは無限の時間軸の中において
変容点とならなくてはいけない。
変容とは何か。
Aと聞かれてBが答えだとしたら
Bと答えてはいけないのである。
その事物の裏の裏の裏をかいて
一度焼却し灰にした後
それを再び構築しAでもあり
BでもありさらにCでもある
回答をするべきなのである。
それを変容という。
つまりあなたがインプットをする理由は
変容点としての人間存在の力を
増大させるためであり
それを意識しなくてはいけない。
まさにその意味で事物は自己本位的に
存在しているのである。
これらを見て人は時にそれを
「煙に巻く」と言ったりする。
煙に巻いてしまえばいいのだ。
存在するならば変容させよ!

偏執狂的批判的詫び寂び

偏執狂的批判的詫び寂び。
パラノイアッククリティックワビサビ。
それは日本人しか到達できない領域である。
滅びていくものの美しさを
妄想的に批判的に。
我々の多神教的素地は西洋とは異なる
偏執狂性を産み出す。
時には批判さえも排除される。
排除ではなくその意味が内包され相殺され
形をとどめなくなることもあるだろう。
西洋に勝る東洋などという
くだらない観念はいらない。
アプローチが異なるという事実だけで
そこから何かを論じる必要性などない。
我々は流されてはいけないのだ。
いや流されてしまうことこそ勝利なのだ。
偏執狂的批判的詫び寂びの世界で
生きる喜びと滅ぶ喜びが
完全にイコールとなるだろう。
一歩も揺らがない日本人としての誇りが
世界を切り開くと同時にその誇りは
燃え尽き灰になることで逆に世界から
賞賛を浴びることになるだろう。
何かに固執することなく、
諸行無常さえも固執であると言い切る
その世界で私は知っている顔を浮かべる。
見たこともないあなたの顔も浮かべる。
私はついに詫び寂びが滅ぶ石の茶室で
記憶から消し去ることができない
日々の視界のこびりつきに感謝をする。
無量大数無量大数乗の神々に
ただ感謝をするのである。

じわりじわり迫るルーチン

ルーティンがじわりじわり迫ってくる!
ではなくてルーチンチンは
じわりじわり迫るものでありたい。
“Routine, in an intelligent man,
is the sign of ambition”と
ウィスタン・ヒュー・オーデンは言っている。
ルーチンは知性ある人にとって
野望のサインであるという意味だ。
いいではないか!
ルーチンは野望でありエゴである。
エゴ。
なんとも言えぬ響きだ。
まさにチンである。
令和の時代は野望の時代になる。
最適化された世界に残るものは
煮えたぎる情熱のみである。
ルーティンを!
てぃんを!
てぃんてぃんを!
よしボクは朝何時から起きてお勉強する!
そういう志はいいだろう。
しかし継続することが一番難しい。
そのためにはエゴを丸出しにする必要がある。
エゴ丸出しのじわりじわり迫るルーティンを
獲得した時、
それはまさに未来がティン化されることが
約束されるのである。
珍談はここまでだ!
おのおのじわりじわり迫るティンをヌかりなく!

スキマを極めて拡げる

相変わらずやりたいことは
膨れるばかりである。
全てをやる時間などない。
まあコレは幸せなことではある。
食料余剰の幸運に乗っかって平和を謳歌
のたうちまわっているだけである。
一歩引いて考えてみれば
自分なりに優先順位をつけている。
家族との時間を大きく犠牲にすることは
私にとって考えられない。
絶対に外せないものは必ずあるのだ。
そして外せないものと
投下しなくてはいけない時間を
差し引いた部分が自分のやりたいことに
打ち込む時間なのである。
全てを達成しようと思えば
もしかしたら50年以上かかるのかもしれない。
寿命を超えているかもしれない。
しかしやるしかないのである。
スキマを極めるしかない。
スキマを極めて限界まで拡げる。
それでしか進めない。
億万長者の不労所得者になればいいのか。
それもいいかもしれない。
つまり答えは一つではない。
スキマを極めて拡げるその極限たる解は
体感時間の変容であるかもしれないし
内的感性の変革の可能性もある。
パイナップルの木にぶら下がる
ナマケモノになれ!
時間がないからと言って
自分を追いつめてはいけない。
時間がないと思えば思うほど
私は天の邪鬼が乗り移ったナマケモノになり
スロス!スロス!と叫びながら眠るのである。

旧宮家

今後の皇位継承のことが心配になり
旧宮家について調べてみた。
旧宮家いわゆる旧皇族は昭和22年に
11宮家51名が皇籍離脱している。
今後、皇位継承者がいなくなってしまうことが
問題視されているが旧宮家には現在
数多くの男系男子がおられるようだ。
あるサイトには
旧宮家の男子を皇籍復帰すると、
皇室典範に一文入れればいい」とも
書いてあった。
皇位継承を男系男子に限る伝統は
神話時代を含めた2679年続いている。
この伝統を守るためにも
皇籍復帰は検討するべきだと思う。
GHQによる皇籍離脱の本当の意図は
皇統断絶であるとも書いてあり
真意はわからないが可能性は否定できない。
自然消滅させる目的があったのかもしれない。
天皇は日本人の拠り所であり
他国にはない日本の強みであり
その存在が無くなってしまったら
この国は大混乱に陥るだろう。
想像を遥かに超える大混乱になるだろう。
側室復活、皇籍復帰は簡単なものではない。
様々な国民の意見がある中
クリアしていくにはかなりの難題である。
どうなっていくのだろうか。
注視していきたいところだ。